えのさんの琉歌ものがたり

「琉歌」って知っていますか?知っているけど、今はそんなになじみがないと思っていませんか? 知らなきゃもったいない、意外と面白い琉歌のことをわかりやすく解説します。

小話

今回の記事で30件目になりました!
いつも私のつたない文を読んでいただいてありがとうございます。
これからも頑張りますね。

さて今回は小話として、私が琉歌にはまったきっかけとなった一冊の本を紹介したいと思います。

その本の名前は「標音評釈 琉歌全集」
難しそうなタイトルですよね。
作者は琉歌や芸能の研究者の島袋盛敏先生と琉歌の音韻表記した翁長俊郎先生。
見た目も凶器になりそうなほどの厚みです。





これは難しい話になるぞと引き返そうと思う方もいそうですね。
大丈夫です。面白い話になりますから!
・・・・うん、多分。
それでは、ものがたりをはじめましょう!

この本に出会ったのは今から十数年前。
私が大学生の時でした。
私は民話に興味があったので、民話について勉強しようと思い、とあるゼミに入りました。
そのときの課題で、各自でキーワードを決め、その琉歌をこの本から探して、考察するというものがありました。
当時の私は琉歌についてはほとんど興味がなかったので、図書館ではじめて琉歌全集を見たときはげんなりしたものですが、読んでいくとこれが結構面白かったのです。

とくにそれぞれの琉歌の評釈が面白いのです。
たとえば、360番の
つぃゆでんすぃ はなに
くくるあてぃ ふゆい
ふぃとぅに しなさきぬ
あらな うちゅみ
という琉歌の評釈は、

「露でさえ心あるもののように、花に降ってきれいに咲かせておる。まして露にまさる人間にして情がないということがあろうか。」

と、まずはこの歌の意味を書いています。
普通ならここで終わるだろうが、評釈を書いた島袋盛敏先生はこう続けます。

「花は露の恵みを受けて咲き、女性は男性の愛を受けて幸福になる。この法則に背いて、女性に愛を注がない男性は馬に蹴られるがよい。」

そう、評釈に自分の考えや意見を書いているのです。
これが、かなり痛快で面白いのです。

ほかにも恋人と一線を越えようかどうしようか迷っている男の歌では、「ぐずぐずせずに早く一緒に寝てしまえばいいのに、これから先どうなるかと案じているとは、あほかいなあ。」といってみたり、反対のことを言ってウケをねらった狂歌には「おかしくもなければおもしろくもない。」とバッサリ斬っていたりします。

極め付きは、
しかいんや からてぃ
たちなちゆ しみてぃ
わった ゆたでぃまや
いった はらり

という歌では、
「臆病な犬を飼って、毎晩立ち鳴きさせているから、私の家では女房共が何か凶兆ではないかと心配して、巫女を頼んで魔除けのお願いをさせた。そのためにかかった巫女手間の費用はお前さん方で払ってくれ。」
と意味を書き、細かい歌の注釈のあと、
「その時、犬の飼主が一首ありそうなものだが、ないのは物足りない。そこで私が代って一首物して見た。『わつたしか犬の あべたこと何やが、いつたしかとじの騒ぎまぎさ』わが家の臆病犬が鳴いたからとて何程のことがあるか、それよりはお前さんの臆病女房の騒ぎが大きすぎるんだよ。エヘン、どんなもんだい。」
と返歌までしています。
島袋先生のドヤ顔が見えてきそうですね。

ガチガチの研究書なのに、ところどころにある痛快な島袋節ともいえる物言い。
読んでいるうちに琉歌に興味をもち、今に至ります。

いかがでしたか?
ただ、残念なことにこの本は絶版で、本屋さんで売っていません。
購入するには沖縄本を専門に取り扱っている古書屋さんに頼むしかないのですが、数が少なく人気もあるため、なかなか手に入れるのは難しいでしょう。
読むには図書館に行って読むことをオススメします。
私はいつかこの本が復刻してくれることをのぞんでいるのですが。

では、今回のおはなしはこれでおしまいです。
それではまた。

人物伝歌碑名所

しもなりの九年母

お久しぶりです。えのです。
慣れない子育てに追われ、なかなかこのブログも更新できませんでした(^^;
すみません(;_;)

また、最近では新型コロナウイルスの影響で外にも出られない日々が続いています。
皆さんイライラや不安があると思いますが、頑張りましょう!

そこで、過去に行った歌碑の写真などを使って、琉歌のものがたりを紹介していきます!
すこしでも行った気分になってくれれば幸いです(^-^)

今回は今帰仁城跡の中にある歌碑です。





なちじんぬ ぐしく(今帰仁の城の)
しむないぬ くにぶ(しもなりの九年母 〈ミカンの品種〉を)
しじま うとぅだるが(志慶真乙樽が )
ぬちゃい はちゃい(手にとってかわいがっているよ)

直訳すると上のように「今帰仁の城の時期外れの九年母(ミカン)がなって、志慶真の乙樽さんが手にとって可愛がっているよ」となります。
この歌で詠まれている志慶真乙樽は女性で、13世紀頃、北山王の住み処の今帰仁城下の志慶真村百姓の子だと言われています。

なぜ今帰仁城にこのような歌碑があるのでしょうか?ものがたりをはじめましょう!

志慶真乙樽はとにかく美しい上に、性格もやさしいひとだったようで「今帰仁御神」と言われていたそうです。
今でもかわいいアイドルを「神」とかいいますが、この時代もそうだったようです。

そして、彼女の美しさは北山王にも知れて、第二夫人となりました。
百姓の子が側室に。当時としては大出世です。彼女は何不自由なくくらします。

しかし、数年たったとき北山王は不治の病にかかり亡くなります。
そのときに北山王は乙樽に「王妃(第一夫人)が懐妊したと聞く。もし男なら世継ぎに、女なら城中の徳の高いひとを選んで結婚させて城を守ってほしい」と遺言を残します。
王妃は子供を産むには高齢でしたが、王の死からまもなく、無事に男の子を出産しました。

ふつう本妻が男の子を産んだなんて面白くないと思いそうですが、そこは「今帰仁御神」の乙樽さん。
王子の誕生を素直に喜んで、若君を溺愛したそうです。
この歌はその様子を歌っています。
つまり「しもなりの九年母」は「子供を産むには高齢な王妃」を表していて、「今帰仁の城の乙樽さんが王妃の子供を可愛がっているよ」と言うのがこの歌の真意です。

さて、このまま幸せに暮らしましたとはいきませんでした。王子の満産祝いに本部大主という武将が謀反をおこします。
乙樽は家来の潮平大主と王妃と若君と城を脱出。その途中に出産間もない王妃は足手まといにならないようにと自ら川に身を投げてしまいます。
追っ手が迫りつつあるため、悲しみにくれるの時間もなく一行は山田城をめざしますが、乙樽は足手まといになるからと、若君を潮平大主にたくして、故郷の志慶真村に身をかくします。
そして、若君は8歳まで山田城でくらしますが、敵の本部大主に見つかり、北谷間切の砂辺村に落ちのびます。

その後、若君は成長し、丘春と名乗り旧臣たちと本部大主を討ち取り、今帰仁城の奪還に成功。城主となって乙樽と再会し、乙樽は北山の最高神職のノロに任命されて、天寿をまっとうしたそうです。

いかがでしたか?
伝説の美女の歌碑。是非、新型コロナウイルスの終息後、今帰仁城跡に行った際は見つけて、乙樽に思いを馳せて見てください。

小話人物伝歌碑

平成から令和へ

こんにちは。えのです。
今日で「平成」が終わり、明日から「令和」になりますね。
それにちなんで、今回は今の天皇陛下が詠まれた琉歌をご紹介させていただきます。

若輩者の私が、畏れ多くも天皇陛下の歌をご紹介することに不快感をもつ方もおられると思いますが、お許しください。
どうしても許せそうにない方はここで引き返すことをおすすめします。

では、ものがたりをはじめましょう。

陛下が詠んだ琉歌で、みなさんの記憶に新しいのは、2月に行われた天皇陛下在位30年の式典で、沖縄出身の歌手の三浦大知さんが歌った「歌声の響き」という歌でしょうか。
作詞は天皇陛下で、作曲が皇后陛下です。

だんじゅかりゆしぬ(だんじゅかりゆしの)
うたぐいぬ ふぃびち(歌声の響きと)
みうくる われがう(見送る笑顔が)
みにどぅ ぬくる(目に残っています)

だんじゅかりゆしぬ(だんじゅかりゆしの)
うたや わちゃがたん(歌がわき上がった)
ゆうなさちゅるしま(ゆうなが咲く島が)
ちむにぬくてぃ(心に残っています)

この歌は、陛下が皇太子の時に訪れた沖縄愛楽園(国立のハンセン病の療養施設)で、陛下が帰られる際に在園者の方々が「だんじゅかりゆし」と言う歌で見送ったことに感激し、後日お返しとして送られた歌でした。

ちなみに「だんじゅかりゆし」と言う歌は本来航海の安全を願う歌で、祝い事や旅立ちの時に歌われます。歌詞は以下の通りです。

だんじゅかりゆしや(とても縁起がいい日を)
いらでぃさしみせる(選んで目指していかれる)
ふにぬちなとぅりば(船の綱をとれば)
かじやまとぅむ(風は追い風を受けて進む)


陛下が琉歌を詠むきっかけとなったのは、1975年(昭和50年)の沖縄初訪問の直後のようです。
当時の沖縄は沖縄戦で辛い思いをした人が多く、天皇家に対して反感を持っていた人がたくさんいました。
そんな最中、当時皇太子だった陛下が沖縄を訪れたのです。
ひめゆりの搭を訪れた時には火炎瓶を投げつけられました。

しかし、陛下は帰京してすぐに、外間守善先生(沖縄文学研究の第一人者)を呼び、あるお歌を示して「これで琉歌になっていますか」と尋ねられたそうです。

はなよおしゃぎゆん(花を捧げます)
ふぃとぅしらんたましい(人知れず亡くなった多くの人の魂に)
いくさねらんゆよ(戦争のない世を)
ちむに にがてぃ(心から願って)


また、翌年の1976年(昭和51年)には、国際海洋博覧会の閉会式に参加する途中で伊江島に立ち寄られたそうです。ここは沖縄戦で島民の二人に一人は亡くなったといわれるほど戦禍が激しかったところでした。
そして、陛下は後日村民に歌を送られました。

ふぃるがゆるはたき(広がっている畑)
たちゅるぐしくやま(そびえ立っている城山)
ちむにしぬばらぬ(耐えることができない)
いくさゆぬくとぅ(戦世のことは)

この歌は歌碑となっているので、近日中に取材してこの記事にのせますね。

そして、1993年(平成5年)に第44回全国植樹祭で沖縄を訪れた際に賜った歌の歌碑が、護国神社の境内にあります。




みるくゆゆ にがてぃ(平和の世を願って)
すりたるふぃとぅたとぅ(そろった人びとと)
いくさばぬあとぅに(戦場の跡に)
まつぃゆ うぃたん(松を植えました)

さて、天皇陛下が詠まれた歌を紹介しましたが、いかがでしたでしょうか?
戦争で多くの命が犠牲になったこの島を気にかけて平和を祈る気持ちが詠まれていましたね。
新しい時代「令和」も、平和な世の中であるよう願ってやみません。

悲話歌碑

  おひさしぶりです。えのです。
 前回の投稿が去年の11月だったので、だいぶ空いてしまいました。
 子育てやらなんやらでついつい忙しくて、こんなことに・・・。
 すみませんでした。

 さて、今回は「引き裂かれた夫婦」シリーズの第2回目です。
 今回は「瓦屋節(からやぶし)」を紹介します。
 「瓦屋節」も沖縄の古典音楽の一つで、舞踊曲としても有名です。
 なので、もしかしたらこのお話を知っているといる人も多いかも。
  では、ものがたりをはじめましょう。

 昔、瓦を焼く技術を持った朝鮮人が沖縄にやって来ました。
 当時、琉球にはそんな技術を持っている人はいなかったため、王府はこの瓦匠のために住む所を与え、手厚くもてなしました。
 はじめは瓦匠も満足していましたが、慣れない土地の気候風土、言葉の通じない不便さがあり、故郷を想いだしてしまいます。
 帰りたい気持ちは日に日に増していき、ついに彼は王に帰国したいと伝えます。

 王や役人たちは技術を持った彼をどうしても帰したくはありません。
 なんとか引き留めようとしましたが、彼の意志は固く、頑として聞きません。
 王と役人たちはなすすべもなく、困っていました。

 ところがある日、急に彼が「ある琉球の女性を妻にしてくれるのなら、一生この琉球にいてもいい」と言い出したのです。
 それを聞いて王は喜び、承諾します。
 たったこれだけで、貴重な技術を持った人材がずっといてくれるのですから安いものだと、急いで瓦匠の言っていた女性を探しました。

 しかし、調べてみると大変なことがわかりました。
 瓦匠が妻にしたいといった女は、小禄間切当間村(おろくまぎりとうまむら)の百姓女で、すでに夫と子供が一人おり、まわりもうらやむほどのおしどり夫婦だったのです。
 王や役人は悩みます。しかし、国の発展を考えると背に腹は代えられないと考えました。

 この女性は夫と子供と無理やり引き裂かれて、瓦匠の妻にさせられてしまいました。
 瓦匠は大喜びし、渡嘉敷と名乗り、琉球に帰化し、瓦を作り続けました。
 
 ただ、無理やり瓦匠の妻にされた女は、夫や子どものことが忘れられません。
 時々瓦屋の丘の上に登り、故郷の方角を見つめて、別れた夫や子どもを思い、次のような歌を詠んだといわれています。

からやつぃじ ぬぶてぃ(瓦屋の近くにある丘に登って)
まふぇんかてぃ みりば(南方にむかってみれば)
しまぬらどぅ みゆる(島の浦は見えるけど)
さとぅや みらぬ(愛するあの人は見えない)

実はこのお話の瓦匠は実在していて、「球陽」の外巻である「遺老説傅」のなかに「中国帰化人渡嘉敷三郎、真玉橋村の東に于て始めて陶瓦をやくのこと」や「東汀随筆」の「第二十五 瓦製造濫觴ノ事」には中国からやってきた瓦匠が帰化し、渡嘉敷と名乗り、瓦を造ったことについての記述があります。
ただ、その伝説どおり、夫と子供のいる女性を妻にしたことは書かれていません。
ただの伝説なのか、不都合な事実なので隠されたのか。それは今となってはわからないことです。

そして、歌に詠まれた「からやつぃじ」も実在しています。国際通りから沖映通りの方へ入ったところに駐車場があるのですが、その裏手の方です。
歌碑も建っているとのことですが、公園用地になっている上に、草が生い茂っているので入れません。

また、各地の民話のなかには子どもが大きくなって、瓦職人を殺して、仇を討ったとするもや、この歌を聞いた瓦職人が元夫を殺そうとするが、返りうちにあい、やむをえず、女をおいて唐に帰ったと続くものもあるようです。

いかがでしたか。
理由があって仕方ないにせよ、どうにも悲しい話でしたね。

次は平成最後ということなので、平成らしいものにします。平成の内に投稿するのでお楽しみに。

今年もありがとう

大晦日です。
今年は娘も生まれて、慣れない子育てでバタバタしながらも、幸せな年でした。

ただ、なかなか記事を更新できなかったのが心残りです。
来年はもう少し多く投稿していきたいです!

来年もよろしくお願いいたします。
よいお年を。

悲話仲風

お久しぶりです。
11月なのに暑い日が続いていますね。
冬は来るのか?って思うくらいです。
でも、日が沈むのがはやくなったり、ふと吹いた風が冷くなったのを感じると冬も近づいているなぁと思います。
なんとなく切なく、もの悲しくなる季節です。

さて、今回は「引き裂かれた夫婦」というシリーズでお送りします。
夫婦になるきっかけも様々ですが、別れる理由も様々です。
当人同士で別れを決めるならよいのですが、中にはまわりに「別れさせられる」こともあります。
今回は様々な理由で別れさせられた夫婦のものがたりを紹介します。

まず、第1回目は「赤田節」です。
赤田節は沖縄の古典民謡のひとつで、もの悲しい節で歌われます。
さらに、この歌には特徴があるのですが、それはお話の後で解説します。
では、ものがたりをはじめましょう。

時は、第二尚氏王統第14代王尚穆(しょうぼく)の時代。
この王の時代は、先代の尚敬王のよき治世を受け継ぎ、在位43年間はいたって平和でした。

そんなあるとき、ひとりの女が読谷村御殿(第二尚氏の分家。今の読谷村あたりを納める大名)から使いとして、上布の帯を王様に届けに来ました。
彼女はまなべと言い、読谷村御殿の織婦(雇われて織物をおる女性)で、上布の帯も彼女が織ったものでした。

王様はその帯の素晴らしさに感激します。
そして、素晴らしい織物を織れるまなべに惚れこみます。
というのも、当時のいい女の条件の一つに「織物が上手」というのがあったからです。
今で言うところの「女子力が高い」といった所でしょうか。

王様はさっそくまなべを妻とします。
そして、ひどく寵愛し、彼女との間に一男一女ができました。
本来ならば、ここでめでたしめでたしのシンデレラストーリーとなりますよね?
しかし、問題はここからでした。

しばらくたったある夜のことです。
泥酔した男が赤田門(首里城の東方の門。実名は継世門)に忍びいって、その敷居を枕にして歌を歌っていたところを捕らえられました。
男は下のような歌を歌ったそうです。

あかたじょや(赤田門は)
つぃまるとぅむ(閉まっても)
くいし みむぬじょや(恋しいみもの門は)
つぃまてぃ くぃるな(閉まってくれるな)

赤田門というのは首里城の後門で、正式名称は「継世門(けいせいもん)」といいます。
この門は日常使われる門としてできましたが、首里城で一番美しく、首里赤田に面していたので「赤田御門」と呼ばれていたそうです。
今は復元されていますが、裏にあるうえに住宅地が密集している細い道にあるので、あまり人には知られていないようです。





そして、みもの門は御内原(うーちばら。王様の妻たちや子ども、女官などがいる。いわゆる大奥みたいなもの。)へ出入りできる門です。
正式名称は「淑順門(しゅくじゅんもん)」といいます。
今は復元されていて、首里城の有料区域の出口の北殿を出て少し下って、突き当たりを右に行くと、右手にあります。





とらえた役人は彼の素性と動機をききました。
実はこの男は喜屋武(きゃん)某と言い、まなべの夫でした。
彼は仕事で王様への献上品をなくしてしまい、その罪で離島に流刑されていたのでした。
辛い刑期を終えて帰ってきてすぐ、妻は国王の愛妾となったのを知ってしまったのでした。
彼は辛くて、切なくて、どうしようもありません。しかし、相手は王様です。かなうはずもありません。
投げやりになった彼は、酔った勢いで赤田門に忍び込み、その恨みを歌ったのでした。

役人は離縁したわけでもなく現在も妻であるので、恨み事を言うのは当然とは思うのですが、もう妻は国王のご寵愛を受け、王子と王女を生んでいます。どうしようもありません。
彼は泥酔し、赤田門の敷居を枕にして仲風を歌った罪により再び流刑となり、二度と帰ってくることはなかったそうです。

ここまで聞くと、旦那がすごく気の毒で、まなべがひどい女に思えてきますね。
しかし、まなべにも深い事情があったと、伝えるものもあります。
それによると、喜屋武某の家はもともと貧しかったのですが、夫が島流しにあうと、生活はさらに困窮していったそうです。 
まなべは姑と一人息子を養うために山菜を採って売っていましたが、その日の食べるのにも困る暮らしでした。
そのときに、あるおじいさんが不憫に思って、彼女に読谷山御殿の織工婦の職を紹介したとういうことだそうです。

まあ、どちらにしろ悲しい話です。

さて、最初に話したこの歌の特長の話です。
本来、琉歌は8/8/8/6音で歌われるものですが、この歌は5/5/8/6音となっているのです。
このように5音や7音が混じるものを「仲風(なかふう)」と言います。
これは日本の和歌と混ざった形なのです。
また、8音より短いとことから、「伝えたいけれど、ことばにできない。差し迫った気持ち」を歌うのに適していると言われています。

ちなみにこのお話は沖縄芝居にもなっていて、乙姫劇団が1951年に「赤田御門うらみの仲風」というタイトルで演じられています。

では、今回はここまで。
次回も「引き裂かれた夫婦」は続きます。
次回も是非ご覧下さい。

人物伝

名護親方と蔡温

お久しぶりです。
娘が生まれて3ヶ月。やっと少し子育てに慣れてきました。
そこで、「えのさんの琉歌ものがたり」を再開いたします。

今回は名護親方と蔡温の琉歌を紹介します。
この2人は17世紀から18世紀にかけての沖縄を代表する偉人です。
実は私の娘はこの2人にちなんで、名前をつけています。
娘の名前はここでは申し上げられませんが、復活第1号は絶対にこの2人の琉歌を紹介しようと思っていたんです!
まずは簡単に2人について説明します。

名護親方は 第ニ尚氏の士族で、程 順則(ていじゅんそく)という名でも知られています。
主な功績は、清から「六諭衍義(りくゆえんぎ。簡単に言うと、6つの道徳的な教えを解説したもの)」を持ち帰って、広めたことです。
これは日本にわたり、寺子屋で教科書としても使われました。
また、琉球最初の正式な教育機関「明倫堂」を設立し、琉球の教育に貢献しました。

そして、蔡温も第ニ尚氏の士族です。
彼は有能な政治家で、三司官の1人として自ら行動し、農業や林業、商業の政策などを行い、後の琉球王国の方向性を定めました。
また、風水を活用したまちづくりをしていて、名護のヒンプンガジュマルに、蔡温が建てた石碑にそのことがわかる文言があります。

さて、この2人はそれぞれ自分の人生観を詠んだ歌を残しています。
それぞれ見てみましょう。
まずは名護親方です。

ふみらりん すぃかん(褒められるのも 好かん)
すしらりん すぃかん(そしられるのも好かない)
うちゆ なだやすぃく(浮世を何事もなく)
わたい ぶしゃぬ(渡っていきたいものだ)

彼は控えめな性格のようです。
目立たず穏やかに生きていきたいという思いが見えます。
そして、次は蔡温の歌です。

ふまり すしらりや(褒められるのも そしられるのも)
ゆぬなかぬ ならい(世の中の常だ)
さたぬねん むぬぬ(何の評判もない者が)
ぬやく たちゅが(何の役にたつのか)

かなり挑戦的ですね。
穏やかな性格で道徳を説いた名護親方に、賞賛や批判を物ともせずに政策を進める蔡温。
ほぼ同時代に活躍した2人ですが、性格は正反対だったんですね。

さて、今回のものがたりはこれでおわり。
これからも、琉歌にまつわるものがたりを語っていきたいと思います。よろしくお願いします。

無事に出産しました

報告です!
7月16日な昼12時12分に、2940グラムの女の子を出産しました。

琉歌ではないのですが、万葉集の山上憶良の
「しろかねも こがねも 玉も なにせむに まされる宝 子にしかめやも(銀も黄金も宝石も何であろう、子に勝る宝はない)」という和歌を思い出します。

これからも、子育てに琉歌に頑張りますので、応援よろしくお願いいたします。

悲話小話教訓

沖縄には「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」という言葉があります。
意味は、命こそ宝。命が一番の宝物だということです。
沖縄で生まれ育った人ならよく聞かされる言葉ですが、実はこの言葉が琉歌から来ているということを知っている人はあまりいません。
では、この言葉が生まれた経緯を解説しましょう。

1930年3月の那覇市。
山里永吉という人が書き下ろした劇が上演されます。
その劇の名は「首里城明渡し」
出演者は伊良波尹吉(いらはいんきち)、真境名由康(まじきなゆうこう)など、沖縄芝居の名優が勢ぞろいしていました。

この劇は琉球処分を題材にしたものでした。
舞台は1875年頃琉球。第二尚氏最後の王 尚泰の時代です。
当時、琉球は明治政府から日本への帰属を迫られていました。
役人たちも、日本への帰属を進める親日派と、琉球王国を保つために中国に助けを求めようと主張する親中国派と別れて議論がなされ、尚泰も悩んでいました。
しかし、なかなか態度を明らかにしない琉球にしびれを切らし、明治政府は琉球処分官として松田道之を派遣。
松田は軍隊を引き連れて首里城に入り、廃藩置県を通達して、首里城の明け渡しと尚泰の上京を命じ、尚泰は東京に連れて行かれました。

さて、物語の終盤、尚泰が東京へ向かう船に乗るとき、臣下にむけてこの歌を詠みました。

いくさゆぬ しまち(戦の世が終わり)
みるくゆぬ やがてぃ(幸せな世がやがてやってくる)
なじくなよ しんか(臣下たちよ嘆くな)
ぬちどぅたから(命こそ宝なのだから)

ここで言う命とは臣下たちだけではなく、この地に生きる民草、そして王自身のことです。
こうして、ほぼ無抵抗で琉球処分はなされました。

この劇は1ヶ月のロングランとなるほど大人気となり、「命どぅ宝」という言葉も広まっていきました。

そして、その劇の15年後。沖縄戦がはじまりました。
自分の命や大切な人の命を守れないだけでなく、人の命を奪ったりしなければならない状況でした。
まさにこの世の地獄。戦の世でした。

そして、それから73年経ちました。
今日は慰霊の日です。
私たちは「命どぅ宝」を意味を改めて考えて行かなければなりません。

この島の人たちは自分の命だけではなく、大切な人の命、そのまわりの人の命を大切にします。
どんなに辛い状況に置かれても、相手を尊重し、人に優しくーーー。
そんな沖縄の教えを誇りをずっと伝えていきたいと思うのです。

私も来月お母さんになります。
この子にも「命どぅ宝」を伝えていき、いつの日か本当の「みるくゆ(幸せな世)」を生きてほしいと願いつづけます。

今日は若干説教くさくなってしまいましたね。
ご勘弁を。

歌碑季節の歌 夏北部

伊集の木の歌

梅雨も終盤ですね。
今年、沖縄ではほとんど雨が降らず、空梅雨となっていて、今日にも梅雨明けするのではと言われています。
雨は苦手ですが、こうも降らないと水事情や農家への影響も心配になるところです。

さて、今回は「梅雨」ということで、梅雨の時期に咲く花の歌を紹介します。
みなさんは「伊集の木(いじゅのき)」をご存知ですか?
伊集はヤンバル(山原。沖縄北部のこと)に多く自生するツバキ科の常緑樹で、梅雨入りの時期にいい香りの真っ白い花を咲かせます。
緑ばかりのヤンバルの森に真っ白い花が咲き誇る様はとても美しいものです。

さあ、この伊集の木にまつわる琉歌にどんな話があるのでしょうか?
ものがたりをはじめましょう。

時は第二尚氏王統の三代目尚真の頃です。
尚真には正妻の他に3人の妾がいたそうです。
その妾のなかでも「伊集のアヤー」と呼ばれる女性が一番美しく、尚真にも一番愛されていたそうです。

そんな様子を見て正妻はうらやましく思って、歌を詠みます。

いじゅぬきぬ はなや(伊集の木の花は)
あん ちゅらさ さちゅい(あんなにキレイに咲いている)
わぬん いじゅぬぐとぅ(私も伊集の木のように)
ましら さかな(真っ白に咲いてみたい)

「伊集のアヤー」を伊集の木にたとえて、彼女のように美しくなり、尚真に愛されたいと詠んだのです。
この正妻がこのあとどうなったのかはわかりませんが、真っ白に咲いていてくれたらいいですね。

実はこの歌の歌碑が国頭村の辺野喜にあります。
国道58号線沿いの辺野喜橋の所にあるので見つけやすいと思います!





是非見てみてください。

さて、この伊樹の木ですが樹皮には毒があり、昔は樹皮を粉末にして、魚を捕っていたそうです。
触る際はご注意を。

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琉歌とカメと家族をこよなく愛するアラフォー女子(*´∀`)
今日もバタバタと東奔西走(^-^)v

沖縄の素晴らしい琉歌を、分かりやすく楽しく伝えられたらいいなぁと思っています(^-^)